よく「魚は釣りたてよりも翌日くらいの方が美味しい」と言いますよね。
最近では魚の「熟成」がブームになってきており、魚の「神経締め」という言葉も耳にするようになってきました。
漁師・釣り人の区別なく、「魚をより美味しくする」ことへの関心が高まりつつあるようです。
一方で、熟成とはそもそも何なのか?神経締めでどのような効果が得られるのか?など詳しいことはあまり知られていません。
この記事では魚の熟成や神経締めの仕組みや効果について、科学的知見に基づいて詳しく解説します。
魚の熟成とは?
簡単に言うと…
魚の肉の中に旨味成分が蓄積することです。
正確に言うと…
魚が死んだ後に、筋肉中に存在する化合物(主にATPの分解産物)の組成が変化することで、うまみ成分(主にイノシン酸)が生成・蓄積されることです。
…一体全体どういうことなのでしょうか?以下で具体的に説明します。
魚の熟成の具体的な仕組み
私たちが普段食べている魚の身は、魚の筋肉です。
筋肉はATPという物質をエネルギー源として動きます。
そのため、生きている魚の筋肉中には多量のATPが存在します。
魚が死ぬと、ATPは筋肉中に含まれる酵素の働きで以下の経路を辿って段階的に分解されていき、その過程でうまみ成分であるイノシン酸(IMP)になります。
イノシン酸はさらに分解されて臭みであるイノシン(HxR)やヒポキサンチン(Hx)になっていきますが、この反応はイノシン酸が生成されるまでの過程に比べてとてもゆっくり起こります(図中、矢印の太さは反応の速度のイメージです)。
したがって、一定の時間が経つまではATPが分解されることで生じた化合物のほとんどはイノシン酸になります。
これが、熟成が成功して旨味がピークに達した状態です。
その後、イノシン酸が徐々に分解されて臭みが出始めます。
図にするとこのような感じです。
さらに長い時間が経過すると、イノシン酸が分解されて減少し、その産物である臭みが増えてきて腐敗に至ります。
魚の締め方と熟成の関係
魚を締めずにそのまま殺すと、バタバタと悶え苦しむ過程で大量のATPが消費されます(下図上段)。
魚の脳を破壊すると(脳締め)、脳の指令による運動を停止させることができ、その分ATPの消費量が減ります。ただし、脊髄反射による運動は残ります(下図中段)。
さらに脊髄を破壊すると(脳・神経締め:以下「神経締め」)、脊髄反射による運動までをも停止させることができます。
こうすると、水揚げ後の運動によるATPの消費(ATP → ADP)を最小限に留めることができるため、ATPを多く残した状態で完全に殺すことができます(下図下段)。
神経締めを行い死んだ時点でATPを多く残せた場合、ATPの分解にかかる時間が増え、分解プロセス全体の進行を遅らせることができます(下図①)。
結果として、イノシン酸の量がピークに達する時間を遅らせることができます(下図②)。
最終的に、臭み成分が生成されるタイミングも遅れるので、鮮度が長持ちします(下図③)。
つまり、神経締めを行うと熟成のピークまでの時間を遅らせることができ、鮮度を長持ちさせることができるという効果があるのです。
…えっ、それだけ?旨味は強くならないの?と思われましたか?実は私もそう思いました。
神経締めした魚を熟成させると旨味が強くなるようなイメージがありますし、実際に上の図では神経締めをした個体にATPが多く残っているので、その分ピーク時のイノシン酸の量も多くなるように思いますよね。
確かに、なんの処理もしない魚や脳締めのみ施した魚はATP残量が減ります。しかし、その減った分は完全に消失したのではなく、ATPの分解過程の次の段階であるADPに変わっただけです。
つまり、死んだ瞬間にATPが減っていようがたくさん残っていようが、行き着く先は皆ADPであり、うまみ成分であるイノシン酸であるということです。
上の図の②で「(イノシン酸の)絶対量は増えない」と書いているのもそのためです。
もちろん、神経締めが旨味の増大に全く無関係だと断言するわけではありません。
イノシン酸の他にも熟成魚の味を決める要因はあると思われますが、少なくともイノシン酸の総量という観点から見ると、神経締めで確保された多量のATPは鮮度保持に貢献するだけで旨味の増大には関係ないということになります。
イノシン酸以外の魚の味の決め手についても面白い情報を見つけたのですが、これは別の記事に譲ることにします。
神経締めの意味がないこともある?
さて、鋭い方はお気づきかもしれませんが、神経締めには落とし穴があります。
それは、釣り上げたり漁獲した直後の魚を締めても、大きな効果は得られないということです。
脳の破壊や神経締めが介入できるのは、あくまでATP → ADPの過程です。
特に釣った直後の魚は全身全霊で抵抗(運動)していたはずなので、既にほとんどのATPがADPに分解されてしまっています。
このため、イノシン酸のピークを遅らせる観点から言えば締める意味はほとんどありません。
神経締めの効果を最大化するためには、水揚げした後にしばらく休ませて(活け越し)、ATP量を回復させておく必要があります。
結局、どんな締め方が一番良いの?
釣りであれ網であれ、魚を水揚げしたらなるべく長い間イケスなどで泳がせておき、魚をリラックスさせてATP量を回復させます。
魚が十分に回復したら神経締めを施して血抜きし、死後硬直が始まるまでは10℃(ATPの消費が最も遅い温度。0℃近くまで冷やすと消費が加速するので注意)で保管します。
そして、死後硬直が始まったら0℃で保管します。
これが最も長く魚の鮮度を保てる処理だと言えると思います。
もう少し詳しく知りたい方は…
魚の熟成や神経締めの仕組みについて調べるうちに色んな疑問が湧いてきたので、もう少し踏み込んで調査してみました。
その結果を別の記事で紹介しています。
- どうして死後硬直が始まるまでは10℃がいいの?
- イカ・タコも熟成できるの?
- 上で言っていたイノシン酸以外の味の決め手って何?
このような疑問に興味がある方は是非読んでみてくださいね。
追記:実際の味はどう変化する?
ブリを例に、熟成に伴う刺身の味の変化を詳細にレポートしました。
セオリー通りにいくのでしょうか?よければこちらもご覧ください。
・・・・・・・・・
最後に重要な点を一つ…
熟成や神経締めの「科学的知見」とは言っても、熟成や神経締めの仕組みについて全てが科学的に明らかになっているわけではありません。
この記事ではあくまでも現時点で科学的にわかっている情報だけを紹介しました。
この点に注意して上記の情報を参考にしていただければ幸いです。
<引用文献>
横山芳博, & 坂口守彦. (1998). 魚介類筋肉の死後における ATP の代謝とその周辺. 比較生理生化学, 15(3), 193-200.
小関聡美, 北上誠一, 加藤登, & 新井健一. (2006). 魚介類の死後硬直と鮮度 (K 値) の変化. 東海大学紀要海洋学部, 4(2), 31-46.
Mishima, T., Nonaka, T., Okamoto, A., Tsuchimoto, M., Ishiya, T., Tachibana, K., & Tsuchimoto, M. (2005). Influence of storage temperatures and killing procedures on post-mortem changes in the muscle of horse mackerel caught near Nagasaki Prefecture, Japan. Fisheries Science, 71(1), 187-194.
コメント
イノシン酸以外の味の決め手、気になります。
投稿を鰭を長くしてお待ちしてます。
コメントいただき嬉しいです、ありがとうございます!
続編を待ってくださっている方がいらっしゃるなんて、二重に嬉しく有難い限りです。
最近更新をサボり気味だったのですが、魚体に鞭打って頑張りたいと思います。
もう少々お待ちくださいませ。
すごく分かりやすく書いてあって、すぐ理解できました!ありがとうございます!
コメントありがとうございます。
やや込み入った内容ですができる限りわかりやすく…と思って書いたので、そう言っていただけて本当に嬉しいです!
こちらこそありがとうございました。